幼稚園や小学校の運動会にオジイやオバアが大挙して押し寄せてくる時、実は他人の孫の様子を見て楽しんでもいる。これこそが地域の次世代を担う子供達を見守る温かい視線なんだと思う。
フラフラである。地元の字(アザ・地区のこと)で青年会主催の運動会があって、終日競技に出ていたら足がパンパンになった。とくに、最後の1600mリレーでは200mを全力疾走、しかも目の前を行くのが息子の同級生のお父さんとあったもんだから負ける訳にはいかない、死に物狂いで走った。何とか振り切って面目躍如ができたのは良いが、もう足の筋肉が音を上げて働いてくれなくなっている。まあそれでも嬉しい悲鳴といったところか。
さて、毎年参加しているこの字の運動会、班対抗戦となっている。班とは字を4つの区域に分けたエリアで、4班ある。集落内の更に小さなグループであり、いわゆるご近所さんのまとまりである。こうしたイベントでは各班がそれぞれのテントを立て、その下に老若男女が集って親睦を深める事になる。まあ長年付き合ってきた仲である、今度産まれてくる子供のことで盛り上がったり、「年寄りは出なくて良いよ!」「だからあんたは出ないんだろう!」なんて“非常に”気さくなやりとりで笑いが絶えない。
集落内を分けるこの班であるが、その重要な役割は、実は、その班に住む人が亡くなった時にある。人が亡くなると集落内にその旨がスピーカーでアナウンスされるが、必ず「○班のAさんが今朝お亡くなりになりました…」という表現になる。するとその班内に住む人達は、亡くなった人の家の前に班のテントを張り、炊き出しを行い、葬儀屋探し、家の片付けなどを手伝うのである。少ないとは言え人が亡くなる度である、「大変ですね」と聞いてみれば、「そういうものだから。いつかは自分もやってもらう訳だしね」という答えが帰ってきた。その時に私は、死後の心配がいらない事に何とも言えぬ安心感を感じた。自分が死んでも、近所の皆が集まって送ってくれる、これは何にも変えがたい宝ではないだろうか?そして、「死」が非常に身近で、自分にも必ず死が訪れることを認識している。だからこそ、地域の人達は自分の存在を引き継ぐ子供や孫を大切にするのではないだろうか?
今年も青年会は立派に運動会を運営し、終えることができた。昨年よりも参加者数も多く、競技も色々と工夫が凝らされていた。こうした頼もしい裏方の姿に、オジイやオバアが一番喜んでいたのではないだろうか?今回参加してみてそう思った。