ふと2年ほど前の研究日誌を見ることがあったのだが、我ながらそのきつい言動に驚いた。「AはAなのであって、それをBとするのはおかしいし、筋も通らない、けしからん、明日意見を言いに行こう」とあって、翌日その点についてボスと議論している。アグレッシブである。その当時の自分、と言うのも変な気分であるが、アメリカにいる時はそれが普通だった。もちろん、渡米当初からそうだったわけではない。やはり日本人だ、アメリカ人との議論は難しかった。自分の意見を”簡潔に”まとめるのが難しかったし、何より、相手の意見を想定してそれになるべくぶつからないようにしようとしまうところがあったので議論が噛み合わなかった。何度も「お前は何を言いたいのか?」と聞かれ、これを繰り返すうちに、アメリカ人と対等に話せるようになっていった次第である。そこで冒頭に書いたような思考回路ができ上がってくるのである。
ここで重要なのは、行動を起こすことである。ボスのやることだから何か意味もあるのだろう、と流さず、自分の考えを話して相手の意見を聞く、そして議論する。もちろんこちらの勘違いもあるし、相手が間違いを認めない場合もある。しかしいずれの場合も意見を言うことによる相互理解が深まったと思うのである。日本で学生の時は、教授と議論するのに抵抗があった。自分が間違えているかも知れない、自分が口を出すのはおこがましい、色々な事が頭を占めて時間が過ぎてしまう、そんなことが多かった。大きな反省点であると共に、今後そういった教育も必要になっていくんだろうと思うのである。
研究者をやっている時、サラリーマンというのは常識に縛られ、自由な発想が許されない非常に窮屈な仕事だと思っていた。しかし、現実は全く逆で自由な議論ができた。思うことをはっきり言うことができたし、逆にきつい反論にあって議論に結論が出ない時もあった。職場柄というのもあるだろう。しかし、職種を問わずきちんと意見を交えることができるかできないかで、仕事の効率に大きく影響するだろうと思うのである。
議論ができますか?アメリカと日本の研究者とサラリーマン
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